曹洞宗 松岩山 宗生寺 ← 歴史・みどころへ戻る

史跡

山門さんもん

📷 山門の写真

小早川隆景こばやかわたかかげ公の居城きょじょうとして名島(福岡市東区)に築かれた名島城なじまじょう搦手門からめてもんを、後の筑前領主として入った黒田長政くろだながまさ公が、名島城なじまじょうを解体し、福岡城ふくおかじょうへ移転する際に宗生寺そうしょうじに移築したものです。

福岡城ふくおかじょう名島門なじまもん崇福寺そうふくじ唐門からもん、そして宗生寺そうしょうじ搦手門からめてもん名島城なじまじょうの数少ない遺構として残るのみで、貴重な建造物です。

小早川隆景こばやかわたかかげ公が三原みはらにて築いた新高山城にいたかやまじょうの門に酷似していると言われています(現在の曹洞宗そうとうしゅう宗光寺そうこうじ山門さんもん)。

一本のノグルミ(化香樹かこうじゅ)で造られていると伝えられています。

墓所

小早川隆景こばやかわたかかげ公のお墓

📷 お墓の写真

小早川隆景こばやかわたかかげ公の墓 宝筐印塔ほうきょういんとう 高さ8尺7寸

📷 掛け軸の写真

掛け軸

左:宗生寺蔵 隆景公と家臣井上春忠
寛政3年6月12日 加藤一純の讚あり
右:米山寺べいざんじ蔵のレプリカ
築城450年事業の際三原市より寄贈

小早川隆景こばやかわたかかげは、豊臣五大老とよとみごたいろうの一人、正三位中納言しょうさんみちゅうなごん。戦国時代から安土桃山あづちももやま時代にかけての武将・大名。毛利元就もうりもとなりの三男で、同母兄に毛利隆元もうりたかもと吉川元春きっかわもとはるがおり、元春もとはると共に毛利両川もうりりょうせんとして毛利もうり氏の発展に尽力しました。

1587年(天正てんしょう15年)伊予いよから筑前ちくぜん移封いほうとなり、名島なじま城を拠点に、筑前ちくぜん筑後ちくご肥前ひぜん並びに伊予いよ・備後三原(広島県)等八十余万石を領する大名となりました。

筑前ちくぜんを拠点とする15年の間に、宗生寺そうしょうじ四世 桂翁栄昌禅師けいおうえいしょうぜんじに深く帰依きえし、1595年(慶長けいちょう2年)6月12日三原みはら城にて没。

生前の遺言により、小早川こばやかわ家代々の菩提寺ぼだいじである広島県三原みはら市の米山寺べいざんじだけでなく、宗生寺そうしょうじにも供奉ぐぶ4人と共に葬られています。

法号ほうごうは『黄梅院殿泰雲紹閑大居士おうばいいんでんたいうんしょうかんだいこじ』。お墓は宝筐印塔ほうきょういんとうで高さ8尺7寸、米山寺べいざんじのものと同型です。

供奉ぐぶ四人のお墓は五輪塔ごりんとうで、それぞれ乾忠宗哲信士けんちゅうそうてつしんじ融峯功祝信士ゆうほうこうしゅくしんじ苗家木秀信士びょうかぼくしゅうしんじ徹叟本通信士てっそうほんつうしんじという法名ほうみょうがついています。

許斐三河守氏任このみみかわのかみうじとうのお墓

📷 許斐三河守氏任のお墓の写真

村山田むらやまだ(現宗像むなかた市大字村山田むらやまだ)に居住し数百丁を領した領主。宗像むなかた家唯一の分家であり、宗像むなかた家臣団における重鎮でした。宗像むなかた家に世継ぎがいない時は、許斐このみ家より本家の世継ぎを出し、また許斐このみ家に世継ぎのいない時は、宗像むなかた家から世継ぎを出すという間柄でありました。

しかし側室の子氏貞うじさだが正室の親子を殺害して本家を継いだことを心良く思わず、本家を正統にすべく陰謀を企てたが、事は事前に氏貞うじさだに知られていたため、逆に攻められて八並吉原やつなみよしはら(現福津市ふくつし八並やつなみ)にて戦った。奮戦ふんせんしたが戦に負け、1560年(永禄えいろく3年)10月10日戦死。『高林院宗仙大居士こうりんいんそうせんだいこじ』と号し宗生寺そうしょうじに葬られました。他に氏備うじざね夫妻・氏明うじあき夫妻・氏監うじみ氏利うじとし夫妻等許斐このみ一族8人のお墓があります。

宗像氏貞むなかたうじさだしつ(奥方)のお墓

📷 宗像氏貞公室のお墓の写真

氏貞うじさだ公の死後、太閤秀吉たいこうひでよしにより領地を没収された氏貞うじさだ公のしつと3人の姫(長女太姫たひめ・次女乙姫おとひめ・三女細姫さいひめ)を、宗生寺そうしょうじ四世 桂翁栄昌禅師けいおうえいしょうぜんじ宗生寺そうしょうじ門前の端泉院ずいせんいんに迎えました。

秀吉が朝鮮出兵の時に、長女太姫たひめ肥前名護屋ひぜんなごや城に召し出され、『おむねの方』として寵愛を受けたが、秀吉が大坂に引き揚げる際にいとまを出された。その後毛利もうりの家臣草刈太郎左衛門くさかりたろうざえもんに嫁いだ後、まもなく没した。三女細姫さいひめが姉の後に嫁ぎ、次女乙姫おとひめ毛利輝元もうりてるもとの家臣市川与七郎いちかわよしちろうの妻となる。氏貞うじさだ公のしつは、端泉院ずいせんいんにひとりで尼僧のごとき生涯を送ったとされ、没後は宗生寺そうしょうじに葬られています。

―『秋は来ぬ、露もたもとにおきそひぬ、など朽ち果てぬ我が身ならん』―

―『秋が来て、涙が袖にしみるほどつらいのに、どうして私はこのまま朽ち果ててしまわないのだろうか』―

と句が残されている。